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「おはよう、ミル」
彼女の代わりになる気はなかったから、何かを演じるということはしなかった。長い間入院していたことが上手く作用したのか、僕(彼女)の変化に対して、周りの人間がとやかく言うこともなかった。肩まであった髪は切ってまとめて、性は男を選んだ。愛されることに富んだしなやかな肢体は、だんだんと痩せて骨ばっていき、男らしいというよりは中性的な雰囲気を纏うようになった。段々と表情が増え、髪には癖がつくようになった。鏡はまだ見たくなかった。
その後も人間関係は最小限にとどめた。多くの人間が僕に求めたのは“彼女”という符号であり、“彼女”がしてきた努力のことだったからだ。進んで彼らを拒否するようなことはしなかったが、それ以外に何をしてあげる気分にもなれなかった。僕には余裕がなかったのだ。あるいは、僕が冷淡な“人形”だからかもしれない。でも、彼女は死んで、僕は生きているんだ。誰一人としてそれを知らない。知っているとすれば、抜け殻となった“本物の僕”と、彼女に巣食っていた化け物だけだった。罪悪感と承認欲求。人間の中ではそう呼ぶらしかった。便利な言葉だ。一度、名前を付けてしまえば、もうそれ以上考えないで済む。僕は人形でなくなってもなお、自分自身に符号をつけ続けなければ、その存在を保つことができなかった。そうして、僕はどちらかといえば孤独な“人間”になった。
孤独な人間の一定数がそうであるように、僕は本にその救いを求めた。誰かと喋るよりは、活字に耳を澄ますことへ時間を割いた。多くは小説だった。そこには、人間の感情がありとあらゆる符号で内包されていた。そして、その数多の符号の中に僕が含まれることを期待した。それらしいものはいくつかあった。でも結局のところ、そんな都合の良いものは無いか、あったとしても誤魔化しに過ぎないと後になって分かった。
精神科医という職に就いたのにも、特別な理由があるわけではなかった。ただ、それ以外に考えることができなかったのだ。医者というのは、彼女が唯一僕に求めた符号だった。僕はそのあとをなぞっているだけなのかもしれない。そんな風に思うと、僕はひどく空虚な気持ちになった。仕事は真面目に取り組んだ。何か注力できる対象があるというのは、それだけで僕にとって代えがたい価値を持つものだった。当然の結果として、僕は仕事にのめり込んでいった。病院にやって来る患者の多くは孤独な人間だった。彼らが抱え持っていた問題は、様々な言葉で、時には言葉でなく行動そのものとして、僕の前に姿を現した。けれど、その根源には常に孤独があった。どんな境遇のどんな人格の者も、皆一様に孤独を抱えていた。それに気が付いたとき、僕はまるであらかじめ決まっていたかのように、あの化け物と再会した。